- 公司名稱:サンライズ
- 英文名:SUNRISE
- 其他名稱:株式会社バンダイナムコフィルムワークス / バンダイナムコフィルムワークス / 日升 / 日昇 / SUNRISE Inc. / サンライズ / 三癞子 / 日本サンライズ / 株式会社サンライズ
- 官网:https://www.sunrise-inc.co.jp/international/
『サンライズ』
サンライズ(英: SUNRISE)は、バンダイナムコフィルムワークスのアニメ制作ブランド。
かつては、株式会社バンダイナムコホールディングスの子会社の株式会社サンライズ(英: SUNRISE INC.)という法人だった。
同社は2022年4月1日に株式会社バンダイナムコフィルムワークスに商号変更し、同日以降サンライズの名称は同社のブランドとして継続している。
1972年9月、経営難に陥った旧虫プロダクション(虫プロ)から独立した営業・制作畑のスタッフが中心となって、有限会社サンライズスタジオという名で創業。
虫プロの制作・営業部門に所属していた岸本吉功、伊藤昌典、山浦栄二、渋江靖夫、岩崎正美、沼本清海、米山安彦の7名が設立メンバーである。
手持ちの資金がなかったことから、同年、虫プロ作品で音響を担当していた東北新社に出資を仰ぎ、サンライズ創業者との共同出資により株式会社創映社を設立。
創映社が企画と営業を行い、アニメの実制作はサンライズスタジオで行なう体制が取られた。
そのため、当初の営業・制作スタッフはサンライズスタジオと創映社に同時に在籍する状態であったが、創映社自体は東北新社の子会社で下請けの存在だったため、この当時に制作した作品の著作権表示は全て「©東北新社」となっている。
本社が設立された1972年は、彼らの独立元ともいえる虫プロ(旧虫プロ)や、その関連・子会社の経営難や労働争議が表面化しつつあった頃でもあった。
これは企業の成り立ちや手塚の意向、および経営方針がゆえに「アニメーターにあらずんば人にあらず」と言われる程に、アニメーター偏重の作品作りが最優先される企業風土となったことで、合理的で適切な企業運営ができなかったことが主な要因となったものであった。
創業メンバーは、旧虫プロが倒産直前の末期的様相を呈する前に独立した面々ではあるものの、同社の内情と体質的な問題を組織内部から見て知る者たちでもあり、この企業体質がサンライズスタジオの経営における大きな教訓として、現在まで受け継がれている。
すなわち、サンライズにおける「クリエーターが経営陣に入ってはいけない」という経営ポリシーの確立である。
そのため創業以来、自社スタジオは構える一方で、制作進行管理業務以外の実制作作業は外注スタッフがほぼ全てを担っており、既に50年近い歴史を持つ企業でありながら、サンライズ一筋のプロパー正社員として監督を務めた人物もいない。
これもまた、アニメ制作に必要なスタッフや、専門職の大半を自社で正規雇用として抱え続けたために、昇給・人件費増加・社内ポストなどの問題が解決できずに労働争議に至って破綻した旧虫プロの反省でもあった。
その様な意味において言えば、サンライズでヒット作を手掛けてその名を知られる富野由悠季・高橋良輔などの監督や、塩山紀生・安彦良和・木村貴宏などの著名アニメーターもあくまで外注スタッフに過ぎず、クリエイターは携わっても作品単位での企画・制作までにとどまっている。
また、創業当初の経営陣はアニメの作品性も重視する一方、それ以上に必要に応じた外注の多用などコスト削減や各種版権収入なども含めて、総合的な採算確保を図り健全経営を維持することを最重視する経営方針を打ち出した。
玩具の商品企画のタイアップを、アニメ企画の起点と主軸に据える作品構築のシステムを採用していたことも、今日に至るサンライズを形成した重要な特徴の一つである。
この背景には「資金のない弱小プロダクション故に人件費を負担できない」、漫画原作の著作権(翻案権)を得るために必要な予算が捻出できない、などといった経営初期に抱えていた資金面にまつわる事情がある。
一方で出版物を原作とした作品の場合、アニメ雑誌が記事に取り上げる際、著作権者の意向という形で誌面の素材として使用したい映像の使用許諾が得られなかったり、ページ数の制限が付きまとうことが多く、サンライズ作品におけるオリジナル企画の多さは、1980年代を中心にアニメ雑誌においてメインに据えられ、大きく取り扱われる要因となった。
日本サンライズ時代
1976年11月に東北新社傘下から離脱。
株式会社日本サンライズ(英: NIPPON SUNRISE INC.)に改組・商号変更し、東映本社作品と円谷プロ作品のアニメーション制作を下請けするようになる。
一説には利益の配分を巡る喧嘩別れとも言われており、サンライズの飯塚正夫によると、『ゼロテスター』や『勇者ライディーン』などで得た利益はすべて東北新社に行っており、彼らは給料が上がらず不満が溜まっていたという。
翌1977年の『無敵超人ザンボット3』にて初めて自社企画制作作品を世に送り出す。
1979年制作の『機動戦士ガンダム』とその後の劇場用作品により、アニメ業界にリアルロボットブームを巻き起こした。
1981年、初代社長の岸本吉功が死去。
当時まだ40代であったが、激務が祟り、健康を害した事による早逝だったという。
岸本の死を受け、第2代社長に伊藤昌典が就任。
1985年、オリジナルビデオアニメ(OVA)に進出。
OVAという体裁こそ取っているものの、サンライズ制作のそれにおいて全くのオリジナル企画は少なく、『装甲騎兵ボトムズ』のようなテレビシリーズで人気を得た作品の続編や、『機甲猟兵メロウリンク』のようにその延長線上にある企画という基本方針を取っている。
株式会社サンライズ
1987年6月に株式会社サンライズへ商号変更し、第3代社長に山浦栄二が就任する。
この商号変更と山浦の社長就任に伴い、従来のオリジナル企画主体の路線から転換し、『ミスター味っ子』『シティーハンター』『バツ&テリー』などを端緒に、漫画原作付き作品を手がけることが増えていった。
これらの作品では演出として著名な映画・ドラマ・アニメ、制作当時の時事ネタなどのパロディを取り入れるようになり、以降同社制作アニメの特徴のひとつとなってゆく。
またこの頃は、『ガンダム』に端を発したリアルロボットブームが下火になりつつあった時期でもあり、その火付け役であったサンライズもまた同年放送の『機甲戦記ドラグナー』を最後に、リアルロボット系作品に依存した体制からも一旦脱却。
玩具メーカーとのタイアップのオリジナル企画においても、『魔神英雄伝ワタル』を機に子供がロボットに乗る、もしくはロボットと友情を育むことで敵を倒すロボットアニメをてがけた他、『鎧伝サムライトルーパー』の関連作品の成功を受ける形で、容姿端麗な美少年が特殊アーマーを装着する鎧ものが幅を利かせた。
当時の入居していたビルでは1階がスタジオ、2階が企画室、3~5階が本社だった。
有名なロボットアニメを多数手がけるサンライズは上井草駅前に自社ビルを有する大企業だと思っていた石垣純哉は、小さなビルでTシャツにジーンスというラフな姿の若者が出迎えたことに驚いたという。
1990年代前半には、当時のガンダムよりも下の年齢層をメインターゲットとした『勇者シリーズ』が商業的な成功を収めるなど、元々得意とするオリジナル作品も堅調に推移した。
バンダイ(バンダイナムコ)グループ傘下企業へ
1994年4月1日、バンダイによる資本参加を受けて同社傘下のグループ企業となる。
これに伴い経営陣も刷新され、以降の経営上層部の人材は松本悟のように、主にバンダイの送り込んだ人物が占める様になっていった。
川口克己によると、バンダイグループ内部には出資した作品のマーチャンダイジングの成功・不成功の判断基準として、『ガンダム』シリーズを指標に用いる向きがあり、同シリーズと同程度の売上でないと作品として成功とは見なされないことから、自然とガンダムに偏重していく傾向があるという。
サンライズ作品に限らず、「ロボットアニメはガンダムに淘汰される」という見方すらある。
このため勇者シリーズが終了した1990年代末以降はサンライズ自身でさえ、少年向け・低年齢層向けのロボット物のオリジナルアニメ作品を発表する機会にはなかなか恵まれなくなった。
またバンダイグループ(バンダイナムコグループ)は、版権・キャラクター関連のビジネスでは長年の業界最大手として豊富なノウハウを持っているが、その裏返しとして同社が関与する作品において、版権や制作体制全般の管理が極めて厳しく徹底されることでも知られている。
サンライズもバンダイグループ入りの後はその例に漏れず、版権ビジネスだけではなく作品出演の声優や原作者・監督などのメディア出演についても、管理がより強化・徹底されるようになっていった。
以後の沿革・歴史は下記にて年代ごとに記載。